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考 泣いて馬謖を斬る

文 小林 毅


2013.03.09

劉備の誤算

中国三国志のときのことわざ。

3世紀前半の中国は後漢時代が終わり、3つの国に分かれていました。中央部から北部が魏、揚子江から南の沿岸部にかけて支配していたのが呉、そして現在の四川省、益州を中心とした山岳部の蜀です。

その蜀は、劉備が建国した国で、後漢の流れをくむという大義名分があったため、漢(蜀漢)と名乗っていました。しかしながら、一番領土も狭く、最弱の国でもありました。

もともと劉備は持つべく国もなく、全国を流浪しながら他国の客将として過ごしていましたが、諸葛亮孔明を軍師に招くことによって、中央部の荊州、そして益州を手に入れることに成功します。諸葛亮は劉備より漢再興の想いを、この三国鼎立という作戦を持って、魏と呉に対抗することを第一の目的とし、その後、荊州と益州から魏を攻めるという構想を抱いていました。そのことからここまでは諸葛亮の思い描いた通りに進んでいきます。

ところが、誤算が生じます。

劉備を初めとする主力武将は皆益州に入っていました。荊州は劉備一番の将軍、関羽に預け、時機を見て双方から魏に攻め入るという作戦を立てていましたが、この関羽が呉との友好関係構築に失敗してしまいます。当の関羽は、呉との友好関係がなくても十分戦えると考えていました。そこで呉は、荊州担当の武将を呂蒙から若手の陸遜へ変更することで油断させ、関羽が魏に攻め入ったところの裏を突き、なんと関羽を打ち破ってしまいます。

劉備はこのことに大変嘆き、その怒りを魏ではなく、呉に向けてしまうことになります。

諸葛亮としては、確かに呉の行動は許せないが、当初の目的は魏を攻め漢を再興することであり、決して私念でことを起こしてはいけない、と強く諌めます。劉備は、起業以来の同士であり、義兄弟の契りを結んだ関羽を失ったことは、その大義名分よりも優先する一大事でありました。どうしても呉を攻めたい劉備は諌めた諸葛亮・趙雲などを呉遠征に同行させませんでした。これが三国志ファンが一番嘆いてしまう、夷陵の戦いです。

劉備は大軍を率い、呉に侵入します。連戦連勝で、破竹の勢いでどんどんと攻め入ります。これにあわてた呉の孫権は、奪った荊州を返すから、和平を結びたいと申し出ますが、劉備は聞く耳もありません。どんどんと攻め入ります。これが悲劇の始まりでした。

この戦いの報告を受けた、魏の曹丕は、「劉備は戦いを知らない。このように兵を長く行軍させる兵法があるか、いずれ劉備は大敗する」と予告したといわれます。

この言葉の通り、呉の陸遜による猛反撃により、劉備軍は目も当てられない大敗を喫します。今まで劉備を支えてきた、多くの武将や兵を失ってしまいます。ある歴史家によると、ここで蜀の主力ほとんどを失ったので、蜀の国を保つだけでも大変なことだったに違いない、という分析も読んだことがありました。

劉備は命からがら、白帝城へ逃げ込みます。そしてあまりの大敗に病に伏せ、結局ここで死を迎えてしまいます。

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