会津藩祖の保科正之です。徳川秀忠のご落胤であり、将軍家光の腹違いの弟でした。

会津藩と保科正之

文 小林 毅


2013.04.19

幕末の会津藩

維新の頃、会津藩は最後まで幕府側として戦いました。京都守護職では、荒れた京都を警護し、長州藩や薩摩藩などと対峙しました。

新選組を配下に置き、また、会津戦争では、ボロボロになるまで抵抗しました。白虎隊の悲劇などもその一例として語り継がれています。

ただ官軍である長州藩の立場から見ると、京都を追われ、池田屋の変では多くの有志が新選組により抹殺され、また、蛤門の戦いでも煮え湯を飲まされ、久坂玄瑞など多くの人材を失うなど、会津藩には恨みがあったことも考慮しなければいけません。

その想いも両者にあり、それが最後まで抵抗した理由かもしれませんが、いずれにしても、会津戦争は悲劇でしかなかったと思います。

以前はなぜ松平容保は、負けると分かっている戦争にああまで抵抗しなければいけなかったのか、若い白虎隊まで巻き添えにしてしまったのか、あそこまでお城がボコボコになるまで頑張ったのか、全く理解できませんでした。

それを紐解くカギは、ある一人の人物の影響が無視できないのです。それは、藩祖である保科正之なのですが、この人物、ただの大名ではありません。その正之の出自が大きいのですが、それを今回遡ってみたいと思います。保科正之とはいったいどんな人物だったのでしょう?

HOME » ブログ » » 会津藩と保科正之

top